(レバノン・ブシャレ村)
首都ベイルートから北東へ約120キロ。レンタカーで5時間ほどかけてやって来たブシャレ村は洗練された首都とは非常に対照的だ。クリスチャンが多く住む村の道路沿いには小さなイコンが飾られ、家々のベランダにはイスに座って穏やかに談笑する村人たちの姿が見える。そのなかをのんびりとした売り声を響かせて野菜売りの軽トラックがトロトロと走っていく。レバノンの最高峰サウダ山(標高3207メートル)の南西麓、標高1800メートルに位置するブシャレはそんな静かな村だ。
レバノンスギの巨木が残る「神の杉の森」はこの平和な村里のすぐ上にある。
レバノン国旗にも描かれるレバノンスギは古代から伐り続けられてきた。芳香を放ち、腐りにくい優良材であったために、古代エジプトではピラミッドの土台や足場、ツタンカーメン王の人型棺やクフ王の太陽の船に使われ、ミイラづくりにも樹脂が利用された。栄華を誇ったソロモン王もエルサレム宮殿などの造営のために大量にレバノンスギを伐り、ローマ帝国時代も船材として盛んに使用されたのである。
1998年には世界遺産に指定されたものの、たどり着いた神の杉の森は直径300メートル、7ヘクタールほどしかない。スキー場になっている周囲はほとんどハゲ山と化し、神の杉の森は不毛の大地に残された最後の楽園のように見える。だが、その緑の楽園はあまりにも小さい。
文明がいかに多くの自然を破壊してきたかが、史実としてではなく、実感として迫ってくる。かつてはレバノン全土に広がっていた森はここまで伐り尽くされてしまったのだ。
しかし、神の杉の森のなかへと進むと、天空へとまっすぐに伸びた幹にしなやかに枝を広げたレバノンスギが立っていた。心なしか芳しいレバノンスギの香りが漂い、芽生えたばかりの小さな芽も育っている。樹齢数千年、直径2メートル以上の木も30本ほどあった。
なかでももっとも威厳を放っている巨木があった。推定樹齢3000年とも4000年ともいわれ、一説には6500年ともいわれている古木だ。まっすぐに伸びる幹ではないが、ずっしりと太く短い武骨な幹。強靱な根が大地をしっかりとつかみ、古代から続いた伐採の歴史のなかを生き残ってきた力強さがみなぎっている。残された森は文明の愚かさを伝えているが、この巨木はレバノンスギという木のすばらしさを確かに伝えている。
レバノンスギはいま植林が行われ、保護活動が始まっている。残されたこの巨木がレバノスギ復活の一端を担っていることは間違いないだろう。